いやだな、私だって完璧というわけではありませんよ!買いかぶりすぎです土井先生。私だって下手を打つ事はあります。
……ああ、下手を打ったといえば……確か少し前の事なんですけど、不思議なものを見ましたね。
お恥ずかしい話なんですが、仕事中にちょっとヘマしてしまいましてね。
前後の状況はご想像にお任せしますが、崖から落ちてしまったんですよ。
その時の話です。
落ちた時に受け身を取り損ねてしまって、背中を思い切り打ち付けてしまったんですよねぇ。いやぁあの時の痣はすごかった。
しかも間の悪いことに、胴に一撃もらってましてね、衝撃で傷が開いてしまったんです。
歯を食いしばりながらなんとか近くの茂みに潜り込んだところで、すっかり動けなくなってしまいました。
幸い傷はさして深いわけではなかったので、そこで一晩明かすことにしました。無理を押して多少移動したところで、利があるわけではありませんでしたし。
月が中天を過ぎた頃でしょうか。
装束を縛って血止めをしていたんですが、なかなか血が止まらなくて。薬草でもないかと茂みを動こうと、周囲の気配をよくよく探っていた時です。
ちりーん
高く澄んだ鐘の音がしました。
ちりーん
ちりーん
虫たちの声が、潮が引くように静かになっていきました。
ぺた
ぺた
ぺた
素足で歩いているような、密やかで不規則な足音が聞こえてきました。
鐘の音と同じ方向からの音でしたので、最初はお坊さんかと思ったんですよ。
何かぶつぶつと囁く声も聞こえました。
ペタ ちりーん ペタ ペタ
ペタ ペタ ちりーん ペタ ペタ
ちりーん ペタ ペタペタ
それはゆっくりとした速度で、こちらに近づいていました。
気付かず通り過ぎてくれるよう私はずっと息を殺していたのですが、そのおかげといいますか。
微かな足音が一つだけではないことに気付きました。
はっきりとした人数はわからないのですが、少なくとも十五・六人はいたんじゃないでしょうか。
ええ、何分本当にかすかな足音だったものですから……普通の人はまず気付かなかったでしょう。
怪我をして地面に伏せていなければ、私も気付かなかったかもしれません。
いやだなぁ土井先生、褒めても何も出ませんよ。
私はほら、育ちが秘境ですから。人間ほど大きな生き物って、あまりいないんですよ。
大きな生き物の足音は、熊が来たとか、猿か鹿か、あとは狼か……。とにかく、追い払わなければならない獣が来たというサインでね。なので、ちょっと敏感なんです。
足音の間隔からすると急ぎ足にも思えるほどなのに、速度はとてもゆっくりでした。さっさと過ぎ去ってくれればいいものを、本当に少しずつ近づいてくるんです。
今更身動きするわけにもいかず、しかし血はどんどん装束を濡らしていくので、参りました。
あまり血の匂いをさせていても獣が寄ってきてしまうので、仕方なく服の上から傷口を強く押さえて止血をしました。
鐘の音と足音は徐々に徐々に近づいてきて、とうとう六間もないところまでやってきました。
本当に奇妙なのですが、足音より大きい筈の囁き声は、その距離でようやく聞き取れるようになりました。
ちりーん
『……いたします』『お暇申し上げ……』
ちりーん
『申し上げます。お暇……』『……ます』『お暇いたします』
ちりぃぃーん
壮年の男の声を皮切りに、翁の媼の声、子供の声、若い男女の声……鐘の音の合間に、多くの人々の囁き声を耳にしました。
皆、長年世話になった人に別れを告げるような、慎ましい声音でした。
薄ぼんやりとした灯りが近づいて、私はここが正念場とより一層息を潜めました。
傷が熱を持ってきていたので、少々辛かったですね。
細く静かに溜め息をついて、茂みの奥からその集団を透かし見ようとした時です。
ちりーん
鐘の音を響かせながら、蒼い火の玉がゆっくりと私の目の前を通り過ぎていきました。
分かりませんが、恐らく鬼火と呼ばれるものでしょう。
青に緑に黄に紫、様々に色を変えながら宙を浮遊するそれは、一つではありませんでした。
ちりぃん、という音を立てながら森を進む火の玉は、ざっと見て十五・六ほど。
不思議なことですが、鬼火というのは小さな松明くらいの大きさがあるのに、周りを照らす明るさというのはロウソク程も持っちゃいないんですね。
それだけの数の鬼火が集まっていても、月明かりの方がよっぽど明るかったんです。
そんな薄暗い中を、気配が、ぞろぞろと歩いていきます。
ここでまた私は我が目を疑ったんですが、気配もする、足音もする、声が目の前を通り過ぎていくというのに――……。
姿が、どこにもなかったんです。
それでも月明かりに照らされた地面には、まるでそこに何かがいるかのような影がいくつも動いていました。
ええまぁ、とてもじゃないですが人間には見えませんでしたけど。
大きさは……そうですねぇ、熊くらいでしたが、長い尾があったので熊ではないでしょう。手足は細く頭は大きく、太い針のような毛並みが影からでも見て取れました。
私は丁度その行進のど真ん中の茂みに隠れてしまったらしく、前後左右を気配に囲まれて、生きた心地がしませんでしたよ。
といいますか、何度か踏まれましたね。なんとも形容しがたい、変な感触でしたが……。
『あちら』がこちらに興味がないようで本当に助かりました。
ゆっくりゆっくり気配が遠ざかり、鐘の音も完全に消えた頃、私はようやく緊張を解きました。
装束は血でぐっしょりだし、結局貧血になってしまって起き上がれないし、結構散々でしたね。
まぁ、色々、良い教訓になりましたよ。
通りすがりの風魔忍者のコメント
与四郎:
いやーべっくらこいたサ。
なんざ人さ倒れてんべーと思ったらーさ、なんぞ見たことあん人でねえの。
おー、なんさァ利吉さでねえの、なんしてっべーち思っちけんどよー。
忍者だんべ?
問わず語らずってぇもんだべ。
血ィば流しすぎで死んかけててヨー、もんそいしゃっこいんで慌てっちまったサー。
んぉ?こら言ったんバレちまーら、俺利吉さにボコされちめーんでねーんけー?
おー、わりいけんど今ん忘れっちまっちくんろー。
他ん変わった事?
そーいやサ、あすこば谷んなってんけんどヨー、ずぁっと道みてーにヨ、鼠の死体が並んでんべさー。
あらぁなんだったんだべ?