僕は他の人よりちょっとだけ違うものが見える。
それはどこにでもいる。
ふと見た木陰に立っていることもあるし、夜、部屋の隅にわだかまっている事もあった。井戸を覗き込んだらその底に溜まっていたこともあったし、縁の下や蔵の窓から溢れている事もあった。
初めて見たそれは黒いもやもやとしたもので、何となく怖いものだと思ったから、出来るだけ近付かないようにした。
それに気を取られて転ぶことはしょっちゅうで、そそっかしい子だねぇとよく言われた。ぼくはその言葉が心配してのことだって判っていたから、照れ笑いで返すだけだったけど。
だけど、忍術学園に入学してから、「それ」は変わった。
「それ」はだんだんと人の形をとってくるようになった。
相変わらずもやもやとしているけど、それは確かに人のような形をしている。
三反田数馬
ある時、「それ」は人の肩に乗っていた。
「…………」
「どうしたの、数馬」
「いえ……」
数馬は半分気をやりながら、本日は曲者さん御来訪なんですね、と呟いた。
我らが保険委員長は本日も不運だったようで、忍服が半分がた濡れて頭には木の葉が付いている。とはいえ彼らの普段からすれば、まだ序の口といったところだ。
問題は保険委員長の前に座して茶など啜っている、隻眼の曲者だ。
ハッキリ敵方の忍びの、しかも組頭である人物が暢気に茶をしばいているということも問題だが、数馬は今そこに突っ込みを入れる余裕はなかった。
黒い忍装束の肩に、黒いもやっとした人が腰かけている。
もやっとしてはいるが、人型だと判る程度には形を成していた。そんなことは初めてだったので、失礼だと分かっていながらも思わずちらちらと視線を送ってしまう。伊作先輩は、僕が曲者を気にしていると思ったようだけど。
その日はそれだけで、特に何もなく終わった。
が――曲者はまたやって来た。
肩に黒い人影を乗せて。
ある時、ふと視線をやった拍子に、黒いもやの中に横顔が見えた。
どきっとしてもう一度まじまじと眺めてみたけれど、影法師のように黒く塗りつぶされたそれの中にもう他の色を見つけることは出来なかった。
一瞬だけ見た、紙のように白いその横顔、目元はもやに覆われて見えなかったけれど――作り物のように白かったそれが、印象に残った。
ある時、背後からそろりそろりと曲者に忍び寄る伏木蔵を見つけた。
曲者――雑渡さんは当然気付いているだろうけど、ぼくはちょっとひやひやしていた。あのまま飛びついたら、あの黒いもやに突っ込むことになるからだ。
何があるかわからない。
ぼくは伏木蔵を止めようとして、転んだ左近に巻き込まれた。不運だ。
その隙に、伏木蔵がそれっとばかりに雑渡さんに飛びつく。
しかも、もやの乗ったその肩をめがけて。
「待っ――――」
もやがするりと立ち上がった。
えっ?
いくら人型をしているからって、もやがそんな人間みたいな動きをするところを初めて見たぼくは、暫くぽかんとしてしまった。
伏木蔵は雑渡さんの肩にぶら下がりながら、「あぁん」と残念そうな声を上げた。トンボを捕まえようとして逃がしてしまった童のような声を上げた伏木蔵の視線の先には、黒いもやが立っていた。
「ちょちょちょっと伏木蔵。何してるの。なにしてんの」
動揺して声がどもる。あわあわと起き上がるぼくに、曲者に対して動揺したのかと思ったらしい左近が「数馬先輩しっかりして下さい」と厳しいお言葉をくれる。はいすみません。落ち着きます。
学園が侮られると思っているのだろう。今年の二年生はプライドが高くてしっかり者が多い。
でもぼくの動揺はそういうことじゃなかった。
伏木蔵は「あれ」が見えているのだろうか?
というか、もし「あれ」に向かって飛びかかったのだとしたら、ぼくは先輩として伏木蔵に何を言えばいいのかわからない。スリルを求めるのも程々にとか諫めておいた方がいいんだろうけど……。
雑渡さんの膝できゃっきゃっとはしゃいでいた伏木蔵を呼ぶ。
唇を尖らせてとてとてと歩いてきた後輩の肩を掴んで、ぼくは半信半疑のまま口を開いた。
「伏木蔵、あのね、見えてるの?知ってるの?」
主語が抜けているけど、仕方ない。あれが何なのかなんて、ぼくにはわからないからだ。
「数馬センパイ知ってるんですかぁ、スリル~」
伏木蔵はうふふとろ組特有の暗い笑いをこぼして、「知らないですけどお」と続けた。その視線はやはり、あの黒いもやに注がれている。
「まっくろなひとですよねえ」
「ぼくも知らないけど、そうだね」
「あとぉ、何かこうごちゃごちゃっていうか~、もやもやっていうかぁ、触っちゃダメって言われそうな感じっていうか~、そんなのはわかります」
ぼくは頭が痛くなってきて、こめかみをもんだ。
この後輩は、なんで触っちゃダメな感じのするものに好んで手を伸ばすのだろう。
「あのね……」
「だって、気になるじゃないですかぁ。触ったらどうなるのか。そりゃ危ないんだろうなあっていうのは分かってます。でも、蜂の巣だって一回は突いてみたくなるでしょう?」
ちょっとしたスリルですよお。
伏木蔵は、目を三日月のように細めて笑った。
何このこすごく怖い。
先輩として彼の将来に一抹の不安を感じる。
当の、肩に妖し物を乗せている御仁はというと、何の話か分かっているのかどうか。一つしかない目を細く笑ませて、こちらを見ている。
ぞっとした。
「ほーら伏木蔵、おいでー」
「はぁ~い」
妖し物は、わけがわからない。けれど、何となく、近付くべきではないとわかる。
曲者は、何を考えているのかわからない。近付いて良いのか悪いのか。どうするべきか、何の確信もないまま動かなければならない。
例えるなら、月のない晩、山の奥深くで闇に囲まれる恐怖と、熊に睨まれて動けない時の恐怖……いや、うん、熊の方がぼくは怖いな。保健委員会で山菜摘みしてた時、後ろを振り向いたら熊がいた時は心臓が口から飛び出るかと思った。
……いえ、訂正します。熊より目の前の曲者の方が怖いです。
だって見てるこっち見てる。じっと見てる。伏木蔵も一緒になって見てる。
怖い。伏木蔵込みで怖い。
「……………………な、何か」
その時、黒いもやの「ひと」が、ゆるりとこちらを向いた。
は?
白い輪郭の中、人形のように色のない唇に白魚のような指がそっと当てられる。
へ?
恐ろしく整った白い手指を軽く握って、人差し指だけをぴんと立てて唇に当てるその動作。
唇がゆっくりと弧を描いて、しィぃ、と囁いた。
突然硬直した数馬に、曲者の目が今度は訝しげに細められる。
顔を上げて、それから数馬の顔を見た伏木蔵は、不思議そうに呟いた。
「お知り合いなんですかあ?」