三之助ェェェ!と怒声を上げて走り去る体育委員たちを見送り、竹谷は溜息をついた。
滝夜叉丸はよくやっているなあ、と思う。鼻につくところがないわけではないが、あの七松先輩の下で後輩を統率してなんとかやっているのは、本人も自負する通りの優秀な証拠だろう。
(俺にゃあとてもできねぇな……怖ぇよ、あのヒト)
実はそういう竹谷こそ、後輩という関係の中では一番七松に怖ろしい目に遭わされている――手加減ナシという意味で――のだが、本人に自覚はなかった。
立ち上がって装束についた土をはらう。がしがしと灰色がかった髪をかいて、生物小屋を振り仰いだ。
あんまり認めたくない、認めたくはないが、いつものことだ。そろそろ現実に戻ってこなければならない。
「あ~あ~……どいつが逃げ出したんだ?」
足元に注意を払いながら、ゆっくりと壊れた生物小屋に近付く。
急に動くと、逃げ出した毒虫をぷちっとやってしまうかもしれないし、近くに居る虫たちもより遠くに逃げ出してしまうかもしれない。
後ろからついて来ようとした一年生に注意を促す。
「危ねぇからゆっくり来いよ。ゆっくりな」
普段通りに小屋に駆け寄ろうとしていた三治郎と一平は、竹谷の視線にはっと足を止めた。
「食満先輩、危ないんで七松先輩をどっかに」
「おぉー悪い悪い」
「何だぁ?私は虫なんかにはやられないぞう!」
「オメーが虫にとって危険なんだっつの」
何だとぉ!私だって虫くらい殺さないで捕まえられるぞ!と叫びながら、芋虫七松は運ばれてゆく。
「七松センパイがおはし持って毒虫捕まえてるところ、想像できないなあ」
「素手でつかんでつぶしそうだよね」
「えぇ~……にぎりつぶすの?毒虫を……?すご~い」
「七松センパイだったら舐めときゃ治るとか言いそう」
並んでそれを眺める一年生たちは、単なるイメージを述べているだけである。
だがまさにその通りであることを知っている竹谷は、ちょっと遠い目をした。ひとつ溜め息をついて、気持ちを入れ替える。中には危険な毒虫もいる、不運な犠牲者が出る前に早く捕まえねばならないのだ。
「よし!」
ぱんっと手を叩いて、竹谷はくるっと振り返った。
「急ぐぞお前ら!日暮れまでに毒虫を回収しないと、学園総出で夜っぴいて毒虫探しだ」
ウェ~とげんなりした顔をする一年生を見下ろして、竹谷は苦笑いする。
「腐るな腐るな。ほれ、孫兵呼んで来い。あいつにしかわからん虫も……」
ふっと言葉を切って顔を上げた竹谷に、一年生はそろって首を傾げた。
「竹谷センパイ?」
「どしたんで……あ、タカ丸さん」
「あっ!……た……ゃくぅ~ん!竹谷く~ん、見ィつけたァァァゴルァァァアアアア!!」
のほほんぽやんとした声が恐ろしくドスの効いた声に変わる。その豹変ぶりに震え上がるより早く、学園で一、二を争うボサ髪の持ち主は緊急脱出の体勢に入っていた。
すなわち、脱兎の如くの遁走である。
止める間もなくとんで逃げる竹谷の居た場所に風を切って突き刺さるのは簪。
「逃がさないよォォ―た~け~や~くうううううううん!!!」
捕食者の目をした辻刈りという獣は、普段のはにゃーとかほにゃーとかいう擬音のしそうなお花畑系男子とはまるで別人である。
あっと言う間に逃げ去った委員長代理を呆然と見送り、そしてそれを追って風のように走る髪狩人をも見送って、一年生たちはぽかんと口を開けたまま顔を見合わせた。
「……おれ、伊賀崎センパイ探してくる」
「……えっと、じゃあ、ぼく木下先生探してくる」
「じゃ……ぼくたち~、カゴとおはし用意しよっか……」
「あ……そ、そだね」
先輩が居なくても、毒虫は回収しなければならない。
いきなり頼れる先輩を失った生物委員たちは、それでもいつもと同じように動き始める。先輩がタカ丸さんを振り切って帰ってくるまで、自分たちでなんとかしなければ。
ここに竹谷が居れば、立派に毒虫脱走に慣れ切った後輩たちの姿に、男泣きを堪えたかもしれない。
「……竹谷センパイ、だいじょうぶかなぁ……」
「こんど、タカ丸さんに竹谷センパイを許してあげてくださいってお願いしに行こっか」
「あっ、お風呂で髪の毛あらってあげるといいかも」
「じゃあ……立花センパイとか~、滝夜叉丸センパイに、トリートメント借りなきゃね……」