少し前のことだが、毎夜同じ夢を見た。
何もない真白な地平に、空からは五色の光がたなびくように降り注いでいる。
そこで俺は、禅を組んでいた。
瞑っていた目を開けると――そうだ、目を閉じていてもその光景であることは何故かわかっていた。それが夢というものだろう。
目を開けると、目の前にびいどろの盃が差し出されている。その盃からはえもいわれぬ良い薫りがしてな。
ほとんど無意識のうちにその盃を受け取ると、一息に飲み干した。
――そこで、いつも目が覚める。
やかましい、夢だと確信していたから飲んだのだ。現であればそんなもの、伊作への手土産くらいにしかならんわ。
何だ伊作、欲しくないとでも言う気か?薬馬鹿のお前が。
――ふん、それで続きだがな。
オシロイシメジ城の印をとる課題があっただろう。
――そうだ、泥仕合になっていた。あの戦は酷いもんだった。ああなると、もはや勝ちも負けもそう変わらん。
そこで、森に程近い野っ原を通りがかった時のことだ。
つい先刻まで前線だったようでな、転がってる兵の中には、まだ息のある者も多かった。
さして必要もねえのに眺めていたいもんでもない。さっさと抜けようとして、……足を掴まれた。
咄嗟に振り払ったが、足を掴んだのは、死相を浮かべた男だった。もう四半刻ももたんだろう、だがその目は恐ろしくぎらついていた。
「くわせろ」
男の口がそう動いたが、声は出なかった。
その時、俺は夢の中で嗅いだあの芳しい薫りが漂い始めているのに気付いた。
――そうだ。そこのアヒルの言う通り、戦場でそんな薫りがする訳がねえ。
幻術か、薬か――ぁんだと食満てめぇ、やるかっ!……わかった、わかったから仙蔵、その焙烙火矢をしまえ。伊作も扇を閉じろ。
やかましいこのヘタレが。
まあ、戦場でちょっと頭がおかしくなってるってのも、別段ありえなくもない。鍛錬が足らんな、それだけ思って歩いていた。
しかし、また足が掴まれた。即座に振り払う。
また掴まれる。振り払った。
何かおかしかった。先刻まで呻き声しか聞こえなかった野っ原は、其処此処に転がった兵どもの囁き声で満ちていた。
「ぅぐわせろ」「くい、ぐいでえ、あああぐ」「くわせくわせろ」「くいでえよお」「うめえもん゛だあ」「ぐいだい」「うううごっちに、こっちにこい」「ああ、ああくわじてけろ」「おまえ」「くわせろようごごご」「くいてえ゛え゛え゛、ぐいてえよう」「くわせろおう」「ああがああうまそうらあがが」「おらのだぁぁぁ、おらがぐう、くうんじゃぇ」「くいたいくいたいくいたいくい」「よこせよごぜぇ、よォごォォぜェェェ」「くわせろよお、おおお」
後ろを振り返ると、数え切れないほどの爛々とぎらつく目玉が俺を見ていた。
瀕死で動けない筈の兵らが、這い蹲りながら手を伸ばしていた。
ああ、俺も幻術だと思った。
俺がかけられているのか、兵にかけられているのか……。
実際齧られたからな、兵たちにかかっていたのだろう。
……と、思ったんだが。
学園に戻ったら、後輩に声をかけられた。
仙蔵、お前の処の穴掘り小僧だ。
「先輩、拾い食いはよくないですよ」
出会い頭にこれだ。
仙蔵、お前後輩にどんな指導をしとるんだ?
どういう意味だと問おうとしたら、無造作に近付いてきて、でかい目をもっとでかくして俺を覗き込んできた。
「それにしても美味しそうな薫りですねえ。ちょっと齧ってもいいですか」
翌日の夢で、盃を叩き落とした。
美しい、蒼い瑠璃の盃でな。薄紅色の水が――酒かもしれんな――輝きながらこぼれて、おそろしく罪深い事をしたような心地になったもんだ。
それから、あの夢は見ない。
同輩のコメント
伊作:
ああ、あの戦ねえ。僕は救護所作って兵を治療してたんだけどさ。
そこに文次郎が定期連絡に来たときね、……確かに空気が変わったよ。怪我人がね、皆文次郎の方を見るんだ。人間を見る目じゃなかったよ。――飢えきった眼つきだった。
学園に戻ってから文次郎の怪我を見たけど、洒落にならないくらい深い噛み傷があった。下手したら、食い千切られていたと思うよ。
仙蔵:
文次郎には秘密だがな。
その薫り、私も嗅いだ事がある。
ある実習から戻って、自室の戸を開けた途端だ。むせかえるようなその「薫り」がした。……説明しがたいが、己が飢えている事を気付かせるような、頭を揺さぶるようなかぐわしい薫りだ。
帳簿に向かっている文次郎が、そうだな……とんでもなく美味い酒の入った酒樽に見えた。
あの頭を景気良くぱっかんと割れば、それは旨い酒が出てくるだろうと、私はその時本気で思った。
幸い、奴が様子のおかしい私に気付いて振り向いたおかげで正気に戻ったがな。不可抗力だが、あんな妖しげな薫りでどうにかなるほど私と奴の付き合いは浅くはない。そもそも、あんな隈の濃い暑苦しく汗臭く喧しく鬱陶しい、しかも男がおばちゃんのご飯より旨いわけがない。
――ふん、わからんぞ?奴が振り向かねば、私はあの時本気で奴を殺して血を啜っていたかもしれん。
癪だが、一人で対抗できるようなちゃちなものではなかったからな。
奴は語らんが、あの時期はもっと多く気味の悪い事が続いたようだ。
――ウチの喜八郎が、焼き魚を狙う猫みたいな目で文次郎を見ていたが、同じような、もっと異様な目つきをした奴が何人かいたからな。文次郎が気付かぬ訳がなかろう?
表立っては、「最近妙な言いがかりをつけてきやがるのが居る」とぼやくだけだったがな。
全員返り討ちにしていたようだから、保健委員にとっては仕事が増えて災難な事だったろう。